2022年11月01日(火)
法話
大悲無倦常照我(だいひむけんじょうしょうが)
前住職 釋好行(松本 好行)
籠目―籠目―籠の中の鳥は―いついつ出やる、
夜明けの晩に―鶴と亀がすべった―後ろの正面だあれ。
人として生を受け、産声を上げて以来、
熱いヤカンに手を触れ、あわてて手を引っ込めるような、
そんな経験学習の繰り返しにより、
いつの間にか自己保身防衛本能の盛んなる人格を築き上げる私たちである。
時おり、ふと、遊び歌の
「籠目籠目籠の中の鳥は-いついつ出やる」と懐かしく口ずさむ。
この歌詞には、世間の出世のため、名利心を先とする故に、
「言念無実(ごんねんむじつ)」
「心口各異(しんくかくい)」なる
(※文末の注記参照)、
人間社会の 虚仮不実性のものさしに、絶対的自信を持ち、
過去の経験学習した実践を常に是とし、
その座を依り所として、善いとか悪いとか、
多いとか少ないとか、幸せと か不幸せとか、
といった“自力の心の籠”からいつ出ることができるのか。
いつ、はだかになれるのか、と問いかけの「カゴメの歌」が新鮮に感じ取れる。
そして次に「夜明けの晩に鶴と亀がすべった―後ろの正面―だあれ」とある。
鶴と亀は、寿福であろう。
私たちが常に追い求め、
あてにしていた、
地位、名誉、財産、健康、経験主義という
自己絶対正義とも言えるその座が、音を立てて崩れ去った時、
さてあなたはどうする。
何を頼みに生きたらいいのか。
この絶望のどん底から、私自身を大きく包み込む願心を
「後ろの正面だあれ!」と、
真後ろから、どこまでも、
人間の真の解放あれと、願う如来の慈悲心が、
ここに歌われているように深信す。
悲しみを共にし
苦しみを共にし
涙を共にし
喜びを共にして下さる
如来、今、我にまします
という、如来の出世本懐たる、今現在説法の願い深きことを、かみしめてみる歩みの歌である。
(※注記)名利心のため、本音で人間付き合いをしない。そこに出る言葉には真実がなく、心の中と言葉の表現の異なりの偽善性をいう。
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